1933年頃から具体的な航空母艦建造の検討をはじめていたドイツは、1935年英独海軍協定でイギリスの35%にあたる38,500tの空母建造枠を手に入れ、その枠を半分に分けて19,250tの空母2隻を建造する基本計画を完了した。
この計画はまもなくZ計画に組み込まれ、『A』『B』の仮称で呼ばれていた計画艦は『A』に命名された『グラーフ・ツェッペリン級』として建造される事となった。検討が開始された1933年当時のドイツ海軍には当然ながら航空母艦の建造技術はなく、やむなく同盟国である日本から技術導入を図る事となった。
交渉の末、1935年に来日したドイツ技術調査団は『赤城』の見学を希望した。しかし、日本としてもゼロから苦労して試行錯誤の末手に入れた、当時の最先端であった航空母艦に関する技術を簡単に渡す訳には行かず、座学中心のスケジュールを組み実艦見学はほとんど行なわれなかったため、ドイツ調査団を失望させている。
それでも、集められた数少ない資料と、独自の技術を組み合わせて進められた設計案はまもなくまとまった。同時期に設計された戦艦『ビスマルク級』や重巡『アドミラル・ヒッパー級』と同様に電気溶接を多用したスマートな船体を持つ『グラーフ・ツェッペリン』は、キールのドイッチェ・ベェルケ社に発注され1936年12月28日起工、工程はほぼ順調に進み38年12月8日進水、39年空軍は搭乗員の訓練準備に入った。1940年末には完成の予定だったが、39年9月の開戦によりUボートの建造を優先すこととなり工事は中断された。42年になって『ビスマルク』撃沈などを契機に、航続距離の増加のため燃料タンクの大型化、15.5サンチ単装砲8基を連装8基、復元力増加の為の大型バルジの追加等の計画を変更、工事は再開されたが、43年には大型艦の工事が前面中止され、3月オーデル河口に移動、ソ連の進出に伴い45年4月シュテッチンで自沈した。その後ソ連がこれを引き上げ、シュヴィーネミュンデに移して応急修理をし、47年レニングラードに曳航途中に触雷沈没したといわれる。
諸元
排水量 |
「グラーフ・ツェッペリン」
基準28,090t |
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