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第一次大戦後初のドイツ戦艦である「ビスマルク」 Bismarck と姉妹艦「テルピッツ」 Tirpitz の2隻。
この2隻がそろう事により、イギリスの生命線とも言うべき大西洋の補給路にとって重大な脅威になると考えられていた。そのためイギリスはこの2艦を沈める為にありとあらゆる努力をしたのであった。その表れが「テルピッツ」に対する小型特殊潜航艇による爆破工作、さらに執拗な艦載爆撃機等による空襲、最後は「ランカスター」重爆撃機からの12,000lb(12,000ポンド=約5,443kg)爆弾「トールボーイ」による爆撃であった。
「Z計画」に基づき1940年8月、当時最大の戦艦として完成した「ビスマルク」の排水量は、ベルサイユ条約破棄後1935年(昭和10年)締結された英独海軍協定の基準(戦艦の基準排水量35,000t以下)をはるかに超えた基準排水量41,700tで、満載排水量は50,000tをも上回った。41年2月に完成した「テルピッツ」は乗員、搭載燃料が多少増え、「ビスマルク」に比べ基準排水量が約1000t増大している。
「ビスマルク」級は主としてフランス海軍を対象に計画され、主砲はフランス戦艦リシュリュー Richelieu級と同じ38センチ連装砲4基を前後に配置し、副砲に15センチ連装砲6基、10.5センチ連装高角砲8基、機銃多数を搭載していた。米英の新造戦艦が副砲を廃したのに対して興味深い対照を示している。主砲は最大仰角35度、射程36,200m、弾薬は1門あたり通常105発最大120発であった。砲塔は艦首よりアルファベット順にアントン(Anton)、ブルーノ(Bruno)、シーザー(Ceasar)、ドーラ(Dora)の名で区別されていた。
機関は、左右舷機を前に、中央機を後ろに備えた3軸推進で、舵は2枚だった。3軸推進は第一次大戦当時からドイツ大型艦に多用された方式である。船体総重量の約9%を占める推進動力装置は蒸気タービン3基を12基のワグナー高圧蒸気缶(ボイラー)計138,000馬力で直径4.80mのスクリュープロペラ3基を駆動している。
船幅が広いのも「ビスマルク」級の特徴のひとつ。これは「新しい戦艦は過度の重装備を施すよりも、船体に十分な艦内防御を施して建造すべきである。」というテルピッツ提督の言明に基づくものであった。実際、ドイツ海軍の新しい戦艦は、いかなる気象条件下でも非常に安定していた。「ビスマルク」級は優れた射撃管制光学装置との組み合わせで極めて良好な砲台となった。
一番艦「ビスマルク」 Bismarck
1940年(昭和15年)8月完成、8ヶ月を訓練に費やしたのちの41年5月20日、「ビスマルク」は重巡「プリンツ・オイゲン」 Prinz Eugen と共に大西洋のイギリス補給線断絶を目的としてバルト沿岸ゴーテンハーフェン(現グディニア)から出撃した。イギリス海軍はその威力をよく認識しており相当数の艦船を迎撃に派遣した。当初イギリス巡洋艦「サフォーク」 Suffolk 及び「ノーフォーク」 Norfolk が「ビスマルク」艦隊を追跡、のちに巡洋戦艦「フッド」 Hood 新造戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 Prince of Wales 以下6隻の駆逐艦がこれを迎撃する。
5月24日06:00頃「デンマーク海峡の海戦」はその火蓋を切った。この海戦はイギリス海軍にとっても災厄となる。
交戦開始数分後、「ビスマルク」第4斉射後の06:01「フッド」はその薄い装甲を打ち抜かれ船体中央で火の手が上がった。その直後に「プリンツ・オイゲン」の20.3センチ砲弾により後部弾薬庫が爆発轟沈、1,419名の乗組員の内、救助されたのはわすか3名だった。
「プリンス・オブ・ウェールズ」にも7発の命中弾を与えたが炸裂したのは3発で致命傷を与える事は出来なかった。しかし操舵室に飛び込んだ跳弾により艦長を除く全員が死傷し退却を余儀なくされる。
「ビスマルク」も吃水線下に2ないし3発の命中弾を受け燃料が流出、速度も2ノット低下していた。
ドイツ司令官リュチェンス提督は乗艦「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」に対し、別々にブレストへの帰投を命じた。
24日夜、「ビスマルク」は新たに追撃に加わったイギリス空母ヴィクトリアス Victorious の艦載機の攻撃により魚雷1本を被雷、25日には一旦接触を振り切ったが、26日カタリナ飛行艇に発見され、イギリス空母「アーク・ロイヤル」 Ark Royal 艦載のソードフィッシュ攻撃機の雷撃を受け舵を損傷、行動の自由を奪われた。
5月27日10:00頃「ビスマルク」最後の時が近づく。操縦不能となった「ビスマルク」は30分間にわたりイギリス戦艦「ロドニー」 Rodney 及び「キング・ジョージ・5世」 King George X の連続砲撃を受け、その35.6センチ及び40.6センチ砲弾によって、弾薬を使い果たした巨大な戦艦は廃墟と化した。イギリス重巡「ドーセットシャー」 Dorsetshire の3発の魚雷によりとどめを刺された「ビスマルク」はリュチェンス提督以下約2,000名の乗員と共に、艦尾から、ブレストより300海里の大西洋の海中にその姿を消した。
一本の魚雷により舵を破壊され行動の自由を奪われた「ビスマルク」撃沈の教訓は、のちに「H級」戦艦の設計に反映される事となる。
二番艦「テルピッツ」 Tirpitz
1941年2月末完成した「テルピッツ」は、ほとんどの点で姉妹艦「ビスマルク」と同一の仕様だっが、上記排水量の他、4連装魚雷発射管2基と改造型カタパルトの搭載など若干の改良が施されていた。ノルウェーに配備された「テルピッツ」は実際には連合軍艦艇との会敵の機会は無かったが、イギリスはその存在を無視出来ず、自国近海に主力艦2隻と空母1隻を配備せざるを得なかった。「テルピッツ」の無力化を狙った連合軍は長期にわたって、さまざまな攻撃を仕掛けた。
その最初の作戦は42年10月の人間魚雷「チャリオット」による航空機からの攻撃だったが、「チャリオット」は事故で失われた為、実戦に使われることはなかった。1943年9月に「テルピッツ」は出撃、スピッツベルゲンを砲撃しただけだった。同月末、イギリスX艇(小型特殊潜行艇)がアンテンフィヨルドの防潜網をくぐり抜けて「テルピッツ」の船底に爆薬2tを取り付け爆破、38センチ砲塔や主機に大きな損傷を受けた。修理は翌44年春まで続き、ようやく出航出来るようになった4月3日、イギリス空母から飛来した「フェアリー・バラクーダ」急降下爆撃機40機の攻撃を受け甚大な被害を受ける。その後7月と8月2回の空襲では、フィヨルドの急勾配のため正確な爆撃が出来ず、軽微な損傷にとどまる。9月15日イギリス重爆撃機「アブロ・ランカスター」からの「トールボーイ」12,000lb爆弾の攻撃により、大きな被害を被った「テルピッツ」は、修理のためトロンヘイムの南方に移動を余儀なくされ、そこでさらに二回「アブロ・ランスター」の攻撃を受ける。
1944年11月12日3発の「トールボーイ」を被弾した「テルピッツ」は、転覆し1,000名の乗員と共に沈んだ。
諸元 排水量 |
「ビスマルク」 基準41,676t 満載50,153t |
「テルピッツ」 基準42,900t 満載52,600t |
NFスペック | 不明 |
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