英仏海峡(ドーバー海峡)突破作戦
「チャンネル・ダッシュ」「ツェルベルス作戦」

1941年3月22日10:00 フランス大西洋岸の軍港ブレスト
この年の初頭にキールを密かに出港し、スカパ・フローに舫っているイギリス本国艦隊の主力艦をすり抜けて、大西洋へと踊り出て大規模な通商破壊戦を行ない、20隻以上約10万トンもの商船を撃沈した高速戦艦シャルンホルストとグナイゼナウの両艦がブレスト軍港に入港した。2ヶ月に及ぶ作戦行動の後遺症としてシャルンホルストに10週間、グナイゼナウに軽微な修理が必要だった。
 入港から8日目、ブレスト港に空襲警報が鳴り響いた。イギリス空軍の空襲であった。この空襲で港湾施設とホテルが爆撃され、艦の修理中にホテルでのんびりとしていた、士官含む乗組員多数が死傷した。それにも増して重大なことはイギリス軍は500ポンド徹甲爆弾を投下していたのである。明らかに両戦艦の存在を知って狙ってきた証拠であった。
 急遽対空砲火を増強して、連日連夜の空襲に耐えていた4月6日、セントイーベル基地を発進したボーフォート雷撃機隊キャンベル中尉機がグナイゼナウに対し無謀な雷撃を敢行、、キャンベル機は直後に撃墜されたが、グナイゼナウは6ヶ月の修理が必要な大損害を艦尾に受けてしまった。さらに4月10日の夜、グナイゼナウは3発の直撃弾を上構部に受け火災を起こし乗組員50名が死亡、90名が負傷した。


1941年5月24日早朝 大西洋上
通商破壊戦の為、ゴーデンハーフェンを出港しベンゲルを経てノルウェー海からデンマーク海峡を抜けて大西洋に出た重巡プリンツ・オイゲンを伴った戦艦ビスマルクと、英本国艦隊所属巡洋戦艦フッド、高速戦艦プリンス・オブ・ウェールズが砲戦、フッドは轟沈、プリンス・オブ・ウェールズも命中弾を受け戦場を離脱した。
 しかしながらイギリスの軽艦艇は、なおも高速で逃げをはかるビスマルクと接触を続け、同日23:30英空母ヴィクトリアスを発艦したユージン・エズモンド小佐率いるソードフィッシュ825雷撃機中隊の放った魚雷一発を受けたビスマルクは速度を奪われ、25日には一旦接触を振り切ったものの、翌26日ついに哨戒機に捕捉され、英空母アーク・ロイヤル発進の艦載機の雷撃により舵を損傷、行動の自由を失い27日英戦艦キング・ジョージ5世以下の攻撃を受け、弾薬を使い果たし満身創痍となったビスマルクはブレストの西方300海里の海中に姿を消した。この戦闘の始まる4時間前に独行離脱したプリンツ・オイゲンは、5日後の6月1日早朝ブレスト港に無事入港した。ここに独主力艦3艦がブレスト港にてイギリス軍に足止めをされる事となってしまったのである。

同時期イギリス空軍は、連日連夜のブレスト軍港に対する空襲の結果、シャルンホルストとグナイゼナウをしてイギリス(ドーバー)海峡の強行脱出をはかる可能性を危惧していた。英空軍司令部より発せられた、ファイターコマンド(戦闘機戦闘群)およびボマーコマンド(爆撃機戦闘群)に対する警戒令は、パリのドイツ西部方面艦隊司令部で思いつきのようにその可能性を示唆する覚え書きが策定され、本国の独海軍総司令官レーダー提督へ送られた5月30日の、1ヶ月あまりも前に発令されていたのであった。

レーダー提督は、このイギリス海峡脱出作戦には強行に反対した。ドイツに先駆けて実用化の進んだイギリス軍の長波レーダーの存在、狭い海峡を航行する事による操艦の困難さ、雷撃を受けた場合に回避行動を取れるだけの広範囲に渡る機雷原掃海の不可能なこと、そしてなにより、大西洋沿岸に主力艦を配置する事による戦略的価値の大きいことと、15年に及ぶ海軍総司令官として隷下の艦船に対する愛着が一番の理由であった。図らずもこの見解は、ロンドンの英海軍軍令部長サー・ダドリー・パウンズが抱いていた見解と一致していた。

しかし、ヒトラー考えは違った方向に傾いていた。この年の7月からソビエトを相手に戦争(ブリッツ・クローク作戦)を開始したヒトラーは、イギリス軍がノルウェー沖の北海を通り、ソビエトに戦車、航空機を含む武器弾薬を輸送している事を聞き知っており、5月から始まったロフォーテン諸島を発進した連合軍コマンド部隊によるノルウェー海岸線に対する襲撃に神経を尖らせ、西部戦線のイギリス反攻の第二戦線の目標はノルウェーであり、ノルウェー沿岸の戦略的重要性が大きく増したと考えていたのである。このヒトラーの考えは後に、英陸軍モンゴメー将軍隷下の北アフリカ軍団による、エルアラメイン反攻により、想像の産物であることがはっきりする。


この間もブレストに対するイギリス空軍の空襲は続いた。7月1日にはプリンツ・オイゲンも被弾損傷。
 それでも、7月23日修理なったシャルンホルストはテストと砲術訓練を兼ねて250マイル(約400km)南のラ・パリスに向け出港した。同艦の入っていたドックに給油艦を囮として入れて同艦の出港を隠蔽偽装、さらに行方をくらますため偽りの油の航跡が北に向かって引かれたが、この偽装は警戒中のイギリス軍に簡単に見破られた。
 「すわ!海峡突破か!」と色めきだったイギリス軍の混乱をよそに南下したシャルンホルストは、良好なテスト結果を得たものの、若干の整備が必要なためラ・パリス泊地に入港した。ところが同日の薄暮にスターリング爆撃機の一群がシャルンホルストを襲撃した。彼女は行方を眩ます事が出来なかったのである。襲撃後の偵察の結果、軽微な損傷しか与えられなかったと見たイギリス空軍はさらに翌日、ラ・パリス泊地に対しハリファックス8機、ブレスト泊地に対し、新配備された米B−17爆撃機3機を含めウエリントン爆撃機99機ハンプテン18機、をもって空襲を敢行した。ブレストの二艦は軽微な損傷で済んだが、シャルンホルストは直撃弾2発を受け爆発、直後にさらに3発の直撃を受けたが共に不発あった。これだけの直撃弾を受けたのにもかかわらず、応急班の迅速かつ適切な対応と幸運に救われたシャルンホルスト艦長ホフマン大佐は、27ノットを維持してブレストへの帰投を命じた。
 一方、イギリス空軍参謀部にも、限られた資源を対ブレスト作戦に取られることに不満が蔓延していた。今はあらゆる爆弾、あらゆる航空機が、ドイツの工業地帯と兵站線への戦略爆撃に必要な時だ、との意見が大半を占めていた。この時点で在ブレストドイツ艦隊に引き付けられている航空資産は、全体の10%以上になると算出されていたのである。偵察と諜報により、ブレストのドイツ戦艦が数ヶ月は動けないとの情報を得た英空軍参謀部は、安堵に胸を降ろした。当面、対ブレスト攻撃部隊を戦略爆撃に使えると判断したのである。
 それでも、地上監視用レーダーを搭載した航空機による24時間体制の監視が続けられる事となり、合わせて暗号名「フラー作戦」と名付けられた、ブレスト艦隊の出撃に対する作戦も策定された。寄せ集めの爆撃機108機と護衛戦闘機配備され、ブレストのドイツ艦隊が、本国への帰航または大西洋への出撃を企画した場合、これを阻止するという任務が与えられた。散発的なブレスト空襲作戦も続けられたが、いづれも損害を与える事は出来ず、本格的なブレスト空襲は、3艦が作戦可能となったと確認される12月では再開されなかった。


1941年9月17日 東プロイセン・ラステンブルグ<狼の巣>
この年7月以来、対ソビエト戦にかかりきりだったヒトラーから、なんら命令を受けていなかったレーダー提督は、東プロイセンにある<狼の巣>と称するヒトラーの本営で行なわれる総統の御前会議に、突然の呼び出しを受けた。この席上ヒトラーはレーダー提督の大西洋作戦に対してまったく聞く耳を持たなかった。ヒトラーはイギリスがノルウェーに侵攻するものと信じていたのである。
 そしてレーダー提督の言葉をさえぎるとと言い放った。「大西洋はUボートに任せておけばいい。君の艦隊はみなノルウェー沿岸に配置すべきだ。ブレストよりも空襲に対して安全じゃないか。」ヒトラーはノルウェーが『決戦の場』だと言った。そして「君に比べたら余は陸棲動物なんだから」と断った上で噛み付くようにレーダー提督を怒鳴りつけた。「だいたい戦艦なんてろくなもんじゃない。持っている巨砲も陸上に移したほうがずっと役に立とうし、防御もしやすいと言うもんだ。あんな鋼鉄のバケモノどもから艦砲を陸揚げしてノルウェー海岸の防御に使うことさえ、余は考えているんだ!」・・・

 レーダー提督が、二度目に御前会議に呼び出されたのは11月になってからだった。示されたノルウェー地図には、2隻の戦艦とプリンツ・オイゲンが対英作戦行動をするに際しての拠点や区域が記入されていた。「海軍の答えを聞かせてもらおうではないか?」ヒトラーの問いにレーダー提督は、すでに握りつぶしていたプリンツ・オイゲン単艦の英仏海峡突破作戦案を苦し紛れに示した。「なぜプリンツ・オイゲンだけなんだ?なぜ全艦でやらないんだ?」レーダー提督は二の句が告げなかった。プリンツ・オイゲン単艦よる作戦ですら本気でやらせようとは考えていなかったのだ。「来るべき戦場はノルウェーだとは思わんか。イギリス人が馬鹿でないかぎり、きっとあそこを攻めてくるはずだ。」かぶせる様に言い放ったヒトラーはじっと彼の目を見て例のナチスの挙手の礼をやった。「はやくうせろ!」という合図だった。 

 急ぎベルリンに戻ったレーダー提督は、西部方面艦隊司令官ザールヴェヒター大将に連絡をとり、12月まで2隻の戦艦が動けない事を確認すると、幕僚に相談するという理由で時間稼ぎをしようと考えた。対ソビエト戦に忙しく、忘れっぽいヒトラーが気まぐれな作戦を忘れてくれる事を期待していたのである。レーダーは海軍総司令部参謀長フリッケ少将と作戦部長ワグナー少将に事の仔細を打ち明け、形だけでも検討するように指示した。
 作戦部長ワグナー少将は検討を重ねるうちに、無下に反対できない気持ちになっていった。戦術的問題点は数々あれど、この年(1941年)の12月7日(グリニッジ標準時)アメリカが参戦することによって世界の海軍の戦略地図が一夜にして変ってしまったのである。ドイツがブレストに主力艦を配備することによって、大西洋に絶えざる脅威を与え続けた日々は過ぎ去ったとの結論に達した。
 しかし、レーダー提督は、翌12月8日の「マレー沖海戦」における日本海軍陸上攻撃機部隊による英戦艦プリンス・オブ・ウェールズと同リパルス撃沈の報を受け、イギリス海軍軍令部作戦部長サー・ダドリー・バウンド卿と同様に、ますます配下の主力艦の喪失を極度に恐れるようになっていった。
 他方ヒトラーは3艦をノルウェーに回航出来ないのであれば艦載砲を沿岸に据え付けるので引き渡すよう通告してきた。諜報からの英仏海峡にはイギリス海軍の兵力がわずかしか無いとの情報を得たワグナー少将の「リスクを負ってでも海峡突破作戦を遂行しなけければ艦砲を失い、一戦も交えずにイギリス海軍に勝利を献上する事になる」との強い献策と、12月27日<狼の巣>における会議の席上、ついにヒトラーとの激論を演じたレーダー提督は、激昂した上、西部方面海軍司令部に対し具体的検討を命じた。


1941年12月30日 ブレスト港
この日、在ブレスト戦艦艦隊司令官オットー・チリアックス海軍中将の首席参謀ハンス・ユルゲン・ライニッケ大佐の元へ一通の緊急電報が届いた。
 ライニッケ大佐は首席参謀に着任時、チリアックスの強面で威厳を保とうしての不人気と、「意地悪な露帝」と言うあだ名を以前から聞いていたので、ちゃんと心づもりをしており、皆の前で浴びせられるチリアックスの文句を聞き流し、後刻チリアックスを誘い出して2人きりになると「これからもこのようなことが続くのであれば、即座に転任させてもらう」と決め付け、チリアックスはそれ以後ライニッケにはあたらなくなった。彼はチリアックスをあつかえる、数少ない士官の1人になっていた。
 緊急電報は1月1日10:00までにパリにある西部方面艦隊司令部に出頭せよとの命令であった。クリスマス休暇で本国に帰っていて、年明けまで帰任しない予定のチリアックス中将もまた出頭せよとあったので、ライニッケ大佐はこれはただごとではないと感じた。
 当日艦隊司令部に出頭した2人を待っていたのは、ザールヴェヒター大将と新任の軍令部作戦部長シュニーヴィント少将だった。ザールヴェヒター大将は席につくなりずばり切り出した。「総統閣下が三艦を本国に回航して、ノルウェー水域で作戦するように望んでおられるので・・・」主力艦の運命を憂えいていたザールヴェヒター大将は、責任を回避する為、判断を部下であるチリアックスに押し付け、チリアックス中将が滔々とヒトラーの企てに対して反対する理由を述べ始めると意見書にまとめたまえと命じ、自分の意見も付け加えてベルリンのレーダー元帥の元へ送付した。

− 在「ブレスト」戦隊ノ海峡ヲ東航退却セシムルニツイテノ詳細ナル考察ノ結果ハ概ネ次ノ如シ − で始まるこの意見具申書の内容はおよそ次のようなものであった

−−この作戦はあまりにも危険が多い。この一事だけでも、この作戦実施には声を大にして警告する要がある。

−−11月11日付けで西部方面艦隊司令部から意見具申したところではあるが、単艦もしくは数艦をもってブレストより「西方」(地中海、大西洋方面)に奇襲行動することは、大いに意義がある。これに反して「東方」(ドイツ本国、ノルウェー方面)に行動する事は絶大な危険を伴うのもかかわらず、効果の程は疑わしい。「東方作戦」のため必然的に生ずる海峡(ドーバー海峡)の東航通過は、奇襲的要素がなくなるので事実上不可能である。このような行動は夜の最も長い時期にのみ実行可能であるにすぎず、それも海峡における機雷原処理と制空権の確保が不可欠である。

−−極東水域における新しい経験(マレー沖海戦におけるHMSプリンス・オブ・ウェールズ、HMSレパルスの日本海軍陸上機による撃沈を指す)が、戦艦を無用なりとして大西洋における作戦行動を中止する理由になるとは考えられない。英国海軍もそのようには考えていない。英国海軍が主力艦に賦与している意義がその事を証明している。

−−現時点で最大の戦果をおさめる可能性は、ブレストより北方及び南方に指向する奇襲行動に存ずる。敵もわが方のこの種の行動を予想して恐れている。ブレストに対する度重なる空襲がそれを証明している。ブレストから撤退する事は、敵からこの種の戦略的脅威を取り除いてやる事にほかならない。なお、敵が大西洋上に強大な海上兵力を維持し続ける事は困難になりつつある。極東(対日戦)地中海(アフリカ戦線)等に新たな戦場が生じた為である。

−−現実の戦略的効果に加えて、わが海軍は大西洋において威信を博している。もし海峡通過によってわが軍艦が失われる事があれば枢軸国の政策にも影響をおよぼすだろう。わが艦隊がブレストにあるのは、単に大西洋の敵通商に脅威を与えるだけではなく、スコットランド、アイスランド、北氷洋、およびソ連をも威嚇している事を忘れてはならない。

−−もし仮にノルウェーの港湾であっても、空からの敵の脅威と、それに対するわが空軍の労苦が軽減されるとは考えられない。敵は適時適所に、われわれを優越した戦力を集中し得る。特に強調したいのは、現時点における大西洋上の彼我の戦力兵形は一度崩したら回復する事は不可能だということである。

−−かかるが故にわが艦隊がブレストから撤退する事は、重大な過ちであると言わねばならない。たとえさらに損傷を受け修理に日時を費やすとも、あくまでブレストにとどまる事が正しい途である。ただこの場合、今後は防衛する空軍をわずかでも増強するように要望したい。

−−しかしながら、ブレスト撤退に固執されるならば、プリンツ・オイゲンを参加させる事について再考三考をうながしたい。たとえ重巡一隻でもブレストにとどめておくことは、現在、西部方面艦隊の果たしつつある戦略的効果を、その一部でも敵に対して控置し得るからである。

そして末尾にはザールヴェヒター自身の手で次のように結んであった。

−−最高統帥部から提示された”強行突破か武装解除(艦砲の陸揚げ)か”の択一であるが、誠に申し訳ない次第であるが武装解除を採らせて頂きたい。なぜなら、戦局の推移によっては艦砲は再び搭載できる期待を持てるけども、強行突破によって貴重な艦と乗員を失う事にでもなれば、なんら得る事も無いまる損だからである−−

まさに痛ましいと言うほか無い敗北主義者の告白であった。

しかしながらヒトラーはこの具申書について一顧だにしなかった。むしろ、敵空襲に西部方面艦隊の士気が落ちて、乗組員らの神経が参っているのではないかと問題に思った。その間、ドイツ軍の内部事情に関係なく、12月入って英空軍はブレストに対する空襲を強化してきた。


チリアックス中将とライニッケ大佐が艦隊に戻ると、旗艦シャルンホルスト航海長ヘルムート・ギースラーはチリアックスに呼び出さた。旗艦航海長であり艦隊航海に責任を持つギースラーは、ここで初めてヒトラーの意向を聞かされ、作戦遂行に必要なものをすべて要求事項として纏め上げることを命令された。そして作戦が噂となることの無い様に海図を研究する為、掌航海長ヴェールリッヒ兵曹に命じてアフリカ西岸から地中海を含む多数の海図を集めさせた。さらに経験不十分なヴェールリッヒ兵曹に代わって掃海艇艇長に転籍していた前任掌航海長ヨハン・ヒンリッヒス少尉を召還するようチリアックスに要請し、けげんな顔をしてシャルンホルストに戻ったヒンリッヒス少尉は秘密作戦を打ち明けられ、秘密クラブに仲間入りをした。二人は潮流を調べ、日没を調べ、水深を調べ、ブレストから本国ヴィルヘルムスハーフェンに至る各艦が厳守しなければならない綿密な航路と時間表を作り上げたのである。

この間、彼らの知らないところで英海軍は重大なマイナスを負う事となる。地中海での損失が激しくなった為、ビスケー湾に配備していた潜水艦を、二隻を残して一斉に引き揚げてしまったのである。これによりブレスト周辺の哨戒は、そのほとんどを英空軍が引き受けることとなってしまった。


1942年1月12日 東プロイセン・ラステンブルグ<狼の巣>
この日、レーダー、ザールヴェヒター、チリアックスら将星は、最後の関係者一同の打ち合わせ会議の為、<狼の巣>に呼びつけられた。レーダーは参謀長フリッケ少将を、チリアックスは参謀長ライニッケ大佐を、ザールヴェヒターは掃海隊司令フードリッヒ代将を、そして空軍からゲーリングの参謀長イェッショネック中将とドイツ全軍に著名なエース、アドルフ・ガーランド大佐が出席した。ヒトラーにうながされたレーダーの「総統の希望される、在ブレスト艦隊のノルウェー配備に伴う、同艦隊の本国回航に関する諸問題に関して、それぞれ立場からご説明申し上げます。」から始まった会議の決定事項は概ね、以下の内容であった。

1.航路はドーバー海峡を突破することとする。北航路では上空援護が受けられないためである。

2.同艦隊は、夜陰に乗じてブレストを出港することする。昼間ドーバー海峡を通過することとなるが、これは敵の意表を突く事となると共に、空軍の援護に好都合と考えられる。

3.同艦隊には駆逐艦の護衛、機雷原の除去のため持ちうるすべての掃海艇を作戦に投入することとする。

4.空軍は作戦可能な250機の戦闘機および夜間戦闘機をフル動員して上空を可能な限り援護することとする。

5.戦艦二隻が作戦可能なら決行する。戦艦1隻と重巡1隻でも決行するが、重巡1隻では作戦を中止する。

そして最後にヒトラーは言った。
 「日のあるうちに出港してはならん。敵の意表を突くためだ。ドーバー海峡は昼間のこととなるが、今までの経験からイギリス人という奴らはとっさに判断して機敏に行動を起こすということの出来ない人種だ。軍令部や艦隊の諸君はずいぶん心配しているようだが、いざというとき奴らが戦艦や爆撃隊を迅速に東に移してわが艦隊に攻撃を集中することなど出来はせん。君達は立場を逆にして考えてみたまえ。イギリス戦艦がテムズ河口に姿を現してドーバー海峡に向かっているという報せを受けて、すぐさま爆撃機と雷撃機と魚雷艇をかき集めて追うなんてことが君たちに出来るかね?」 そしてヒトラーは歴史に残るたとえ話を続けた。
 「ブレスト艦隊は、外科医の執刀を受けなければ死ぬと決まったガン患者みたいなものだ。たとえ大手術になろうとも思い切ってやってみれば助かるかもしれん。なるほどブレスト艦隊は敵の空軍力を引き付けてはいる。しかしこれもこれらの艦が実戦可能な状態でいる場合に限られる。いずれひどい損傷を受ければ、もう敵は攻撃などかけてはこない。海峡を通過させれば後日大いに役に立つ。したがって余は断じて実行するのだ!」
 しかし、ヒトラーも一つだけ心配事があった。はたしてドイツ空軍は上手くやってくれるであろうか、またしてもバトル・オブ・ブリテンのときにような失態を演じるのではないかと、彼は案じていたのである。この作戦の成否はガーランド大佐率いる戦闘機隊が握っているとヒトラーは感じていた。そこで辞去するガーランドをつかまえて「本当に立派にやってのけられるだろうな」と念を押すようにたずねた。ガーランドが誓って完遂しますと答えたとき、めったにないことにヒトラーは微笑みさえ浮かべたのである。

ついに作戦は実行と決まった。せめてもと望んだ武装解除などはどこへやら、こと志とは反対に、ドイツ艦隊は白昼ドーバー海峡を通過することとなったのである。およそイギリスの敵国だった国で、ドーバー海峡に艦隊を入れようと企てるものが現れたのは、実に3世紀ぶりのことであった。かつて1588年スペインの無敵艦隊(アルマダ)以来のことなのである。


1月12日のヒトラーの決定から『ツェルベルス』(ギリシャ神話の出てくる3つの頭の地獄の番犬)と名付けられたこの作戦の発起までは、たった1ヶ月の日時しかなかった。チリアックスとその隷下の艦隊にとって、危惧される問題点は沢山あった。

 1.決行までの作戦の秘密保持
 2.航路の機雷原掃海
 3.新兵器レーダー網対策
 4.航海中の空襲対策
 5.英軍による早期警戒網の突破
 6.ドーバー海峡を監視している沿岸砲の脅威
 7.敵魚雷艇等小型艦船による襲撃対策
 8.英主力艦隊(本国艦隊)との交戦

ざっと上げただけでもこのような問題点が上がる。目の上のたんこぶ的存在の独ブレスト艦隊の動向については、イギリス軍にとっても必然的に警戒せざるを得ない存在だったのである。

海峡の強行突破に最も適した時期はすでに考えられていた。夜陰、雲が低く、月が無く、悪天候で視程の短い夜に出港するのが望ましい。2月上旬は19:30から07:30までがべったりと闇である。新月は2月15日。そして潮の具合が良いのは2月7日から15日にかけてであった。従って決行はこの時期が最も良いが、日時の決定は天候にかかっていた。
 当時、ドイツ軍の集めえた気象情報は極めて貧弱なものだったので、正確な天候予測は不可能に近かった。そこで大西洋作戦から3隻のUボートが引き抜かれて、アイスランド沖の気象観測に派遣された。このあたりの気象状況が北フランスから海峡にかけての天候を左右しているからであった。大西洋上にくりだしていた遠距離偵察機の気象情報に加え、3隻のUボートがもたらす情報によってドイツ軍の気象予報は格段に精度を上げ、気象予報官により2月11日が最も良い条件の天候になりそうだと報告され、ゼロ時刻は2月11日19:30(グリニッジ標準時)と決定された。


昇進した掃海艇司令ルーゲ少将は頭を痛めていた。この作戦の前に立ちはだかる第一の、そして最大の危険は、海峡にびっしりと敷設された機雷原にあることはルーゲ少将が一番知っていた。西部方面艦隊司令部で行なわれた、在ブレスト戦隊の3人の艦長と旗艦航海長ギースラーとのブリーフィングで示された詳細予定航路は、英空海軍が敷設した機雷原を一切避けてドイツ側の機雷原だけを通り、海峡をいくつかの番号で区切って示されていた。しかし、このドイツ側の敷設した機雷原の掃海作業だけでも容易な技ではなかった。
 ルーゲの掃海隊本部は西部艦隊司令部から数十メートル離れた場所にあった。ルーゲの部下では首席参謀のハーゲン大佐と作戦参謀のフーゴー・ハイデル中佐の二人だけが、この作戦を知らされていた。作業計画の立案と遂行の実務はハイデル中佐の任務だが、彼はこれを自席で計画することは出来なかった。秘密保持のためルーゲ少将は、ハイデル中佐に「こんなに騒々しい環境ではじっくり仕事に取り組めません」と不平を言わせ、個室をあてがわれている他の将校と交代させたのである。誰もこの事を気にとめる者はいず、ハイデルは密室にこもって計画に没頭できることとなった。
 しかし、秘密保持と言う点でルーゲ少将はもっと厄介な問題を抱えていた。配下の艇長を一同に集めて命令を下達することも、明らかに航路とわかる区域の掃海を命じることも出来なかったからである。そこでルーゲは航路にあたるところをギザギザの鋸歯状に細かく分け、この各区を各隊に相互に無関係に割り当てて、他の友隊が何処で何をやっているのかも知らせずに受け持ち区域掃海させ、密室にこもったハイデルが毎日秘密の海図を塗りつぶし、それらをつないで航路に仕立てることとした。部下の艇長達が、この掃海作業に疑問を持たないように、でっち上げの情報と夜間かつ時間厳守を指示した簡潔な命令に従ったルーゲの掃海部隊は、1月の寒夜を、悪天候に悩まされながらも順調に掃海作業を続けた。

1月25日、掃海作業を手伝うという名目で戦艦戦隊護衛のためブレストに向かった駆逐艦、水雷艇群のうち、駆逐艦ブルーノ・ハイネマン(Z1級Z8)が、ルイティンゲン沖で触雷して沈没した。これはブレスト戦隊の予定航路にイギリス軍の新たな機雷原が敷設されたことを示すものだった。悪化した天候の中、怒濤と戦いながら掃海部隊は、さらに広範囲にわたって作業を続けた。ルーゲ少将は3隻の犠牲と引き換えに、一応の予定航路の掃海作業終了を艦隊司令部に報告出来たが、結局は最後の瞬間まで掃海作業は続けられることとなる。

掃海作業は一応完了したが、今度は標識をどうするかという問題が持ち上がった。ブイは沿岸にしか設置できない上、新しいブイは敵にすぐ発見され疑惑の目を向けられてしまう。ルーゲは数隻の掃海艇を航路上特に重要な点に配置して標識船とすることにした。この命令を受け取った掃海艇の艇長達は面食らった。所定の日時に特定の場所に停泊して生身のブイになれというのである。自分達の使命がどれほど重大なものであるかも知らされずに空襲にさらされる無慈悲な命令であったが、ルーゲは艇長たちに何の説明もしなかった。かくして、ルーゲ少将の計画は効を成し、海峡の掃海作戦からイギリス側に危機感を与える事は無かった。


開戦前の1938年春、英本土ワイト島からオークニィ諸島にかけての数箇所に、高さ350フィートもの鉄塔が建てられた時、当時ドイツが開発中だった幼稚なフレヤ・ヴェルツブルグ電探に比べて波長の異なるアンテナを持っているこれらをいぶかしみながらも、ドイツ情報部は通信用のものと判断した。
しかし、ドイツ空軍通信総監ヴォルフガング・マルティニ将軍はこれらの鉄塔は怪しいと考えた。これはレーダーかも知れぬと思ったマルティニ将軍は、一線から退いていたツェッペリン飛行船を使って電波偵察を行うことを計画した。1939年5月と開戦直前の1939年8月の二回行なわれた電波偵察では具体的な探知は出来なかったが、イギリス空軍等の対応も含めていよいよ怪しいと確信したマルティニ将軍は、1ヵ月後の開戦後も諦めずにイギリスのレーダーセットに関する情報を捜し求めた。

1940年フランスが降伏するとマリティニに好機が訪れた。彼はさっそくドイツ空海軍の電波兵器の専門家をイギリス南岸のレーダー網探査のため海峡地域に派遣した。そして派遣された専門家はここで、メートル波からデシメートル波までの多量の英軍電波情報を確認し、電波偵察機も使ってその発信源を正確に突き止めた。かくして出来た英本土レーダー網を示す地図は、イギリスのレーダー技術の全容を示すものであり、ドイツ軍はイギリスのレーダー技術の進歩の程をほぼ的確に知り得ることとなった。

マルティニはイギリスのレーダーに対する妨害策を考えた。1941年いっぱいかかってオステンド、ブーローニュ、ディエップ、およびシェルブールの4箇所に、機能の優れた方位ビームアンテナを持ち、英軍レーダーのサーチ電波に同調する妨害局が建設された。さらに電波妨害装置を装備した航空機も数機配備された。

「ツェルベルス作戦」を知らされたマルティニ将軍は、自身で電波妨害戦の指揮を採る様に命ぜられた。1942年1月からイギリスのレーダー局は毎早朝、数分間のジャミングを経験するようになった。このジャムは巧妙に大気状態による電波障碍と思わせるように似せてあり、日を追ってジャミングの時間は少しずつ延ばされていった。こうして2月に入るとイギリスのレーダー手は、うんざりとしながらも電波の干渉に慣れてしまい、「大気の状態不良ニヨリ・・・」と報告するようになっていた。マルティニ将軍のこの遠謀遠慮、かつ根気強い電子作戦は、「ツェルベルス作戦」の本番でイギリス軍の立ち上がりを遅らせるのに、大きな役割を演じることになったのである。


1月の上旬、ブレスト港にアドルフ・ガーランド空軍大佐の姿があった。ガーランド大佐の名は空軍嫌いの海軍でも知らないものはなく、かつ尊敬と好意をもたれていた。ガーランド大佐はチリアックス中将やライニッケ大佐と綿密な護衛作戦計画を練るためにブレストに訪れたのであった。
 ガーランドの司令部は「ツェルベルス作戦」の全行程の中間地点にあたるル・トゥケにあったが、彼はさらに二箇所増設する事にした。前半の行程のためのカーンと後半の行程のためのオランダ、モスポールである。全行程に途切れなく艦隊上空援護をつけることはドイツ空軍にとって大変な作業になる。日本海軍機零戦の1/3程度の700kmほどしか航続距離を持たないドイツ空軍機は、上空待機時間が極端に少なくなる為であった。夜が明けるまでの時間は30機の夜間戦闘機がその任に着き、夜が明けてからは250機の戦闘機をすべて投入する必要があった。昼間の直衛は1個小隊4機編成で4個小隊16機を1戦闘群とし、1回の直衛任務時間は35分とされ、上空任務時間終了10分前に交代の戦闘群が到着するようにすると1時間のうち20分間は32機が在空することとなる。当直の終わった戦闘群は、航路前方の基地に帰還して燃料弾薬の補給を受け、次の上空直衛の任に就くことになる。このようにして戦闘機隊は先へ先へと北海まで艦隊を護衛してゆくようにした。またガーランドは、上空援護機の管制のため、3艦にそれぞれ連絡将校を乗艦させる事にした。シャルンホルストにはマックス・イベル空軍大佐が、グナイゼナウにはルッチェ空軍大尉が、プリンツオイゲンにはローテンベルグ空軍中尉が乗艦した。

 このように上空直衛の作戦計画はなったが、初めての作戦に際しドイツ空軍は多くの演習が必要だった。空軍は2月上旬の1週間をぶっ通しで、より実戦に近い形で延べ450回の出撃を繰り返して演習を行なった。
 イギリスレーダー群はこの演習をすべてキャッチしていたのにもかかわらず、現場のレーダー操作員と一部の下級士官を除き、上層部では誰一人として警戒心をおこした者はいなかった。

一方、チリアックスはまた、人的面で大きな不安を抱えていた。ブレスト港に釘付けにされていた長い間にまともな訓練も出来ず、乗組員の練度は極端に落ちていた。元々ドイツ海軍軍人は船乗りとして小才の効くほうではなかったが、今は艦としても士気が高まる状況になかった。艦が釘付けにされている間に引き抜かれてしまった多くの熟練乗員のうち、特に経験豊富な者たちをかえしてもらい、せめてもの戦力向上をはかったものの、計画を明かす事も出来ずに士気を高めるのは至難の業だったのである。作戦決定の命が下ってからの1ヶ月と言う短い間に、ドックでも、係留中でも砲術訓練は行なわれ、せめてもの戦力向上に努めたのであった。


 遅かれ早かれドイツブレスト艦隊は、ドイツ本国に逃げ帰ろうとするに違いない。とイギリス側も警戒し、航路の長くなる北大西洋経由ではなく、ドーバー海峡経由であろうことも認識されていた。だが「テルピッツ」が、1月16日に入港したトロンヘイムの新しい基地から出てくる恐れがあったし、中東方面の部隊を輸送する船団を護衛する必要もあったので、本国艦隊はスカパ・フローにとどまらざるを得なかった。そんな事情から、もしドイツ艦隊がブレストを出ようと試みたら主力攻撃は空軍が引き受け、海軍は軽量級の水上部隊によるドーバー海峡の狭い海域での攻撃に限定することで合意が成立していた。ドイツ側の欺瞞工作はかなりの効果を上げていたが、イギリス側がまったく無防備だった訳ではなかったのである。
 だが、チリアックスの計画を妨げる任にあるサー・バートラム・ラムジー海軍中将は、隷下の部隊が所期の効果をあげ得るかどうか、疑念を抱いていた。英航空省が信頼をおいている、攻撃の中軸たるボーフォート雷撃機隊は、ブレストで「グナイゼナウ」を叩き、二ヵ月後「リュッツォー」を叩いたが、停泊中の港湾に対する攻撃であった。高速で移動中の艦に対する攻撃について充分な訓練を受けていないと言うのがラムジー中将の不安の種だった。そのためラムジーは、ビスマルク雷撃の実戦経験のある海軍航空隊第825ソードフィッシュ雷撃機中隊をリー・オン・ソレントからマンストンに移して空軍機の予備とするよう要請した。これは悲劇的ではあるにせよ、ずばり正しい判断となる。ラムジーはまた、駆逐艦6隻をノアから彼の指揮下に移すよう求めたが、指揮下に入った駆逐艦隊は停泊の関係でドーバー港には入れずハリッジに残留を余儀なくされた。さらに魚雷艇に関する要請も容れられたが、2月8日の小競り合いで死傷者を出し、戦力としてドーバー港に配備されたのはわずか3隻だった。
 最後にラムジーは機雷敷設に注目した。すでにドイツ艦隊のブレスト脱出を見越して機雷敷設艦プローヴァーがダンケルク北方海域に連続する機雷原を作っていたが、さらなる強化のため追加で2隻を投入した。空からは空軍爆撃機により、ドイツ本土近海のフリジア諸島沖に磁気機雷を投下するよう手配した。
こうして、海空軍によるイギリス海峡ルート遮断計画、暗号名「フラー作戦」の準備は完成した。事の成否は今や、神の意思に委ねられた。

 ”今夜君は奥さんにキスしてるさ”
2月11日、シャルンホルストの主計科下士官が上陸した。毎日やっている洗濯物と郵便物の受領の為であったが、追って届いた命令でこの下士官は帰艦できなかった。「艦隊が出港した後に」届いた命令によると受け取った洗濯物と郵便物は<潜水艦急行>と呼ばれたブレストと本国の軍港を結ぶ鉄道で転送すべしあった。自分のシャツを長い間待たされるはめになった士官の中には、戦隊最先任参謀ライニッケ大佐もいた。この朝、借りていた部屋を出たライニッケ大佐は、私物を部屋に残したまま帰艦した。スーツケースを持って乗艦すれば、フランス人の目に止まり、いらぬ詮索をされてしまうのを防ぐためであった。結果としてライニッケ大佐はこのあと7週間にわたって他人のシャツやカラーを借りて過ごす事になる。
 準備はすべて整っていた。ルーゲ少将の掃海隊は安全な航路を啓開し終わったと報じ、バイ大佐の駆逐戦隊と水雷戦隊はブレストに終結を終わった。ガーランド大佐の空軍も280機の展開を完了した。海峡海岸一帯にはマルティニ将軍の強力なレーダー施設が、英国レーダー網に対する電子戦を仕掛ける準備を整ている。気象官は海峡の雲高低く、煙霧たちこめる見込みと予報した。
 
 正午 チリアックスはプリンツ・オイゲン艦長ヘルムート・ブリンクマン大佐とグナイゼナウ艦長オットー・ファイン大佐を旗艦に招き、シャルンホルスト艦長クルト・ホフマン大佐を交えて最終協議を行なった。「今回の壮挙はわが海軍始まって以来、かつて無い大胆なものである。命令を断じて守り抜く限り必ず成功すると本官は信じておる。いついかなる場合においてもただ命令の厳守、確実な遂行あるのみだ。では航行序列を決める。シャルンホルスト、グナイゼナウ、プリンツ・オイゲンの順だ。求めて交戦してはならぬ。敵との戦闘は、本作戦の遂行が不可能と認められる場合のみ許される、よろしいな。わき目もふらず高速で東に突き進む、これこそが至上命令だ。」言い終わったチリアックスはシャンパンを用意させ、作戦成功を祈って乾杯を行なったが、心中では自身が出した具申書の意見を変えてはおらず、個人的には今作戦は最高に上手くいって一部が祖国にたどり着けるだけだと考えていた。
 
 19:00 在ブレスト艦艇はすべて出港準備が整っていた。ごく一部の乗組員を除いて誰もが、夜間出港のラ・パリス−サン・ゼナール沖での演習ののち、翌日夜にはブレストに帰港するものと思っていた。19:30タグボートの準備も整いシャルンホルスト艦長ホフマン大佐からの出港命令が発光信号で僚艦に伝えられようとしたそのとき、湾内の空襲警報が鳴り響いた。タグに押されて方向を変えたばかり絶体絶命の状態だった。湾内に設置された人工煙霧装置に急ぎ点火され、陸上、艦載問わず対空砲火が迎撃を始めた。次第に濃さを増す人工霧の中に、敵機の轟音と探照燈の強烈な光、対空砲弾の炸裂光が望まれた。後日、この空襲も街のフランス人を家の中や防空壕に引き込ませるドイツの欺瞞作戦ではないかと疑われたが、19:45から20:30頃までの間、ウエリントン爆撃機16機による正真正銘の空襲だった。被害は街に数弾が投下されたほか港の被害は皆無であり、この直後に爆撃効果確認の英偵察機が爆弾の火光をすかして写真を撮って行った。この写真こそドイツ軍の稀に見る幸運のつき始めであった。撮影された写真はその夜のうちに現像され、人工霧の隙間にはブレスト艦隊の各艦が埠頭に停泊している所がはっきり写っていたのである。これがイギリス空軍をすっかり安心させ、後の判断を誤らせる大きな原因となった。
 
 21:00 チリアックス司令部の面々はヤキモキしながら時計を見つめていた。計画では出港が2時間遅れた場合は、作戦は中止する事となっていた。半時間も前にウエリントン爆撃機は去っていたが空襲警報は解除されていない。作戦に消極的だったチリアックスが中止を命令しようとした21:14、空襲警報は解除された。チリアックスは作戦開始を命じた。
 ブレスト港からの出港は普段でも難しい操艦を要求されていた。人工霧の立ち込める夜間には、一層の困難を伴なったが、全艦がギリギリの危険を回避して揃って出港した。そしてこの出港に伴なったタグボートは翌日の昼過ぎまで帰ってこなかった。演習を終わっての帰港に待ち合わせる口実でのトリックであったが、これも効を奏した。
港外へ出たシャルンホルストから「予定ノ順デ旗艦ニ続行セヨ・単縦陣」の発光信号がまたたいた。敵に発見されるまでは完全な無線封鎖を命令されていた。ブレスト港外は闇夜だが星がまたたいていた。各艦の乗組員は第ニ戦速から第三戦速そして全速の30ノットへと増速している事に気づいた。
 
 その頃ビスケー湾を哨戒中の英潜水艦は、夜間こっそりとブレスト港近くまで哨戒範囲を広げ、明け方外洋にでて充電する行程を繰り返していた。しかし、10日に受け取った暗号電文にはドイツ艦隊がいまだ停泊中とのものであったっため、艦長のコルヴィン少佐は4日間も訓練していないのはおかしいと考え10日から11日にかけてブレスト港近くに潜んでいた。そして11日14:00頃まで粘っていた彼も、バッテリーの充電量が心細くなり、潮の流れに乗って外洋に出てしまった。ブレスト艦隊が出航した時は30マイルも離れた外洋で浮上航行で充電中だったのであった。これがイギリス海軍のケチのつき始めだった。

 順調に最大戦速で航行中のシャルンホルスト艦橋では当直員ヴェルヘルム・ヴォルフが、航海長ギースラーの方を振り向くとたずねた。
「いま、どちらにむかっているのでありますか?」
「うむ、変針しよう。面舵!進路340」
答えるともなく言った航海長の命令にヴォルフ当直員はびっくりした。思っていた進路と違うのである。その進路ではウシャンをかわしてイギリス海峡に向うコースである。薄暗い灯火の下ギースラーはにやりと一笑すると、あっけにとられているヴォルフに言った。
「いいんだよ。このコースでぴったりさ。君はたぶん明日には奥さんにキスしてるさ」

24:00 艦隊はウシャンを通過した。予定時刻に遅れる事72分になっていた。いまやドイツ艦隊は引き返し不能地点に達した。が、乗組員達はいまだに訓練の為の出港だと思っていた。真夜中を少し過ぎた頃、各艦のスピーカーにスイッチが入れられ「ガリガリ」という雑音に続いて「総員気をつけ!」のラッパが鳴り響いた。司令官チリアックスの訓示の伝達である。

「全ブレスト戦隊の戦士諸君に告げる。総統閣下はわが艦隊を他海域での新しい作戦任務の為に召還された。大西洋において多大なる戦果を上げたわがブレスト艦隊は、われわれを行動不能に陥れ自らの脅威を除かんとした敵のあらゆる努力にもかかわらず、諸子の精勤と工廠各員の助力によって、今また戦闘可能になったのである。
 昨夜誓ってその完遂を命じられた新しい任務がわれわれの前途にある。すなわち英仏海峡を東に進み、祖国ドイツの本国水域に到達せよというものである。
 この任務は、人にも、砲にも、そして艦にもその持てる能力を最大限に発揮する事を要求する。この任務が如何に困難なものであるかは、諸子等しく知るところであろう。
 総統閣下はわれわれに、どの一兵にいたるまでも断乎任務を完遂する事を期待されておる。誓ってこの期待にこたえることは、我ドイツ海軍軍人の義務である。
 本国に帰った後にどのような任務がわれわれを待つかは、いまは思い巡らすことではない。戦隊を率いる者として本官は、各員が粉骨砕身その任務を果たしてくれる事を確信する・・・・・」

いきいきとしたざわめきが艦内に広がっていった。今こそはじめて全員が、直面している任務を司令官から明かにされたのである。この任務の壮絶さが水兵たちを奮い立たせていった。たとえ前途にせまいドーバー海峡を通過せねばならぬという難関が待ち構えていようと、あの爆弾にたたきのめされたいまわしきブレストを離れ、本国に帰れるのである。あちらこちらで訓示についての議論がかまびすしくなった。普段はめったに顔を見せない軍医や主計員までが艦橋に状況を聞きに来た。しかし、ひとしきりの興奮が冷めると、次には別の思念が重苦しく各員の胸に重くのしかかってきた。はたして無事に海峡を通過できるのであろうか?明け行く闇に続く昼の明るさのなか海峡にさしかかって敵に発見されない訳は無い。果たして総統閣下が要求しているような海峡通過が無事に成されるとは思えなかったのである。

暁闇の中07:16 各艦のスピーカーが鳴り響いた「戦闘用意!総員戦闘配置に付け!」やがてほのぼのと明けてくる闇の中、まだ暗い西の方角から爆音が聞こえはじめ、4機の友軍夜間戦闘機が味方識別の号龍を発射すると、直衛任務についた。旗艦シルンホルストの司令艦橋では空軍連絡将校イベル大佐が配置に着いていた。各艦の艦容がはっきりし始め、Fw190フォッケウルフ隊の第一陣が直衛配置についた頃、もやにつつまれた太陽がついに顔を出した。空の高みに白いうすい雲の広がりが、すみやかに北東にのびているのを見上げた艦上の者はひとしく満足していた。これこそは嵐が近づいている最初の報せであった。
「英国兵(トミィ)の奴ら、俺達のやっていることを知ったかな?」ほとんど11時間になんなんとする間、彼らは何の妨げも受けずに、いまイギリス海峡をまっしぐらに東進しているのだ。皆が部署で緊張の色を濃くし、英軍のあかつきの来襲を待ち構えていた。

2月11日18:27 セントイーヴェル空軍基地
「タワーよりストッパー1103 離陸を許可する」
「ストッパー1103よりタワー 了解、離陸する」
第224中隊のC・L・ウィルスン大尉は乗機ハドソン爆撃機のスロットルを全開にした。黒々たる闇夜は乗機の翼端さえ視認出来ないほどだった。こんな夜の哨戒任務は計器とレーダーだけが頼りだった。

「やっかいな夜になりそうですな、キャプテン」レーダー員のジョージ・タマス軍曹がぼやいた。
「夜間哨戒はいつでもやっかいなものさ、高度1000フィートだ、目んたまひんむいてスクリーンから目を離すなよ、ジョージ」
「アイサー キャプテン」

イギリス空軍が「フラー作戦」に基づいて三分割した哨戒区のうち、ブレスト近海を含む一番西側のストッパー哨戒区を担当するのが今夜のウィルソン機の役目だった。

19:17 「2時方向に機影、ブレイク レフト!ぶつかる!!」
レーダー員G・コーンフィールド軍曹の叫び声が耳に入る前にウィルソン大尉は体が勝手に反応していた。ユンカースJu88が突然現れて、すんでに空中衝突しそうなくらいに突っ込んできていた。危うく難を逃れて、急激な機動からレーダーを守るためスイッチを切っていた両軍曹が電源スイッチを入れた。「キャプテン レーダーが作動しません!」タマス、コーンフィールド、そしてR・クック軍曹の3人のレーダー員が懸命に故障原因を探したがレーダースクリーンに照明は戻らなかった。
19:40 無線封鎖されていたウィルスン大尉は哨戒をあきらめて基地に進路を取った。ウィルスン機が着陸するとレーダー整備員がすぐさま修理に取り掛かったが、一本のヒューズが原因と判るのは夜もふけてからであった。一向にはかどらない修理に業を煮やした当直士官はウィルスンに別の機で哨戒に出る事を命じたが、代替機はエンジンがかからなかった。50分後、代替機のエンジントラブルの原因が点火プラグのかぶりと判明した時にはすでに、G・パートレット小佐機乗のハドソン機がストッパー哨戒を引き継いでいたが、パートレット機が哨戒区域に達した時はブレスト艦隊が出港してから1時間も過ぎた22:38であった。

同18:48 G・S・ベネット大尉のハドソン機が三分割中央に当たるラインSE哨戒区に向けてセントイーヴェル空軍基地を離陸した。
19:40 ラインSE区に任務についたベネット機もまたレーダーが作動しなかった。機上修理に期待しつつ90分近く哨戒区上空にとどまったベネット機も21:13に無線封鎖を破って基地に連絡を取り、帰投を命じられた。しかし、代替機は配備されなかった。基地に戻って調べてみてもベネット機の故障の原因は見つからず、このセットはこの後3週間も原因不明のままだった。

残る一番東よりのヘイボ哨戒区を明け方まで担当していたのはソーニ島223中隊のスミス、ワット両軍曹が00:32から05:54まで、オーバーラップして03:55から07:15までの予定でアレグサンダー中尉とオースチン軍曹のハドソン機だった。しかし、ドイツの計画に重要な要素を占めた悪天候はブレスト艦隊に味方し、哨戒区の雲高、視程とも悪化の一途を危惧し帰投不能になる事を恐れたイギリス空軍管制官は、予定よりも1時間早くアレグサンダー機を帰投させてしまった。
こうして、イギリスの空からの哨戒は、数々の不運も重なり大穴を明けてしまい、潜水艦も含めたイギリス軍の哨戒網をブレスト艦隊はすり抜けてしまった。
 昼間の哨戒を担当していたのはマンストン近くのRAFホーキンジ基地所属の第91中隊で、ボビィ・オクスプリング空軍小佐指揮下のスピットファイヤー戦闘機が「ジム・クロウ(黒んぼ)哨戒」呼ばれる2哨戒線に飛び立った。しかし帰投した機はそれぞれ、ドイツ小型船舶の活発な活動を目撃したと報告したにとどまった。雲高の低い海峡にまともな偵察も出来なかったスピットファイヤーが離れた直後、厚い雲の下にはブレスト艦隊が侵入していた。

マルティニ将軍の周到な作戦により09:00以降にジャミングを始めるように厳命されていたドイツの対レーダー網と、一機当たり25機相当のゴーストを敵レーダーに出せる特殊装備を施したハインケルHe111爆撃機2機は、ほぼ午前中いっぱいイギリス軍の目を欺き通した。ドイツ軍がなにも対策を取らずにいたら、イギリスのレーダー網は高速で航行するブレスト艦隊も、艦隊上空を護衛旋回する、おおむね一点を中心に旋回しながら25〜30ノットで東に移動する護衛戦闘機群のレーダーリターンも簡単に見つけられたであろう。このことは現代戦における最重要な、正真正銘のEW戦(電子戦)が史上初めて行なわれたケースとして特筆に価する。マルティニ将軍のEW戦術は刻々功を奏していったが、初めての電子の戦いはドイツ軍の一方的な完勝とはならなかった。

2月12日 その朝、ビーチィヘッドの突端にあるレーダーサイトで勤務についているデイビット・ジャクソン砲兵隊兵長は日増しに酷くなるジャミングにうんざりしM型レーダーのスイッチを切り、3週間前に配備された新型の短波レーダーであるK型のスイッチを入れた。沿岸砲の砲兵であるジャクソン兵長は単に船の航行だけに注意を向ける事が任務だが、日の出前に大群の航空機と思しきレーダーリターンを認め、空軍と海軍司令部に通報する事にした。しかし、電話に出た空、海軍の婦人部隊員はともに、いつものように関心を示さなかった。
08:25 ロンドン西方のスタンモアにあるRAF戦闘機軍団司令部のレーダー情報フィルター室主任M・ジャーヴィス中佐が当直に就いた。当直直後から各地のK型レーダーの報告は船団護衛と思われる航空機のプロットを示し始めた。08:45 気になったジャーヴィス中佐は第11戦闘機集団の当直管制官と連絡を取ったが、管制官との協議の結果「毎日続くいつものジャミング」と「空海協同の救難作戦」との結論を出してしまった。その間、海峡一帯の海防を指揮するドーバー・キャッスルのバート・ラムゼイ海軍中将は夜間の警戒配置を解除してしまった。そして09:00以降各地のM型レーダーサイトは、連続的かつ強力なジャミングを受け始めたが毎度の敵の干渉と報告したにとどまった。09:25から各地の報告を受け始めたジャーヴィス中佐は引き続き第11戦闘機集団と協議をしたが、第11集団は「敵の大規模な演習」と結論付けてしまった。

だが、一人だけマルティニのEW戦に騙されなかったものがいた。連日もっとも過酷な航空戦にさらされていたRAFビッキング・ヒル基地の指揮管制官ビル・アイゴー空軍少佐は、当直に就くとすぐにシェルブール半島から湧き出る一連の敵機の動静に関するレーダー追跡情報に目をつけた。そのプリップの動きに注目したアイゴー少佐は、敵航空機の移動中心が25ノットの高速で東に移動している事に気がつき愕然とした。輸送船団がこんな高速で移動する事は考えられず、彼はブレストにいたシャルンホルストとグナイゼナウだと直感した。これがイギリス側でブレスト艦隊の脱出と判断を下した最初のものとなった。

08:00すぎ 敵集団は海峡に向けて高速で移動していると判断したアイゴー小佐は、すぐさま第11集団司令部を呼び出した。
「本官は、これを<フラー>だと判断します・・・」
しかし、電話に出た相手の誰もの反応は心もとなく、事実RAFビッキング・ヒルでも情報将校が<フラー>に関する資料を金庫にしまいこんで24時間の休暇をとっており、具体的にどのように動けばよいのかは誰も知らなかったのである。

10:00すぎ
 第11集団司令部の心もとない反応に思いあぐんだアイゴー少佐は、独断で事を運ぶ事にした。彼はホーキンジ基地のオクスプリング少佐に確認してもらおうと考えた。よしんばこれが誤報で終わってもパイロットには良い訓練になると思ったのである。
「ボビィ。よく聞いてくれ。レーダー情報によるとソンム河の河口付近にハンス(敵機)がたくさん、ぐるぐる廻りながら動いているんだ。・・・うん。はじめはこちらも殴り込みを掛けてくるのかと思ったんだが、奴らずっと廻り続けてるんだ。どうやら船を護衛してるみたいなんだ。悪いが君、ひっと飛び行って見てきてくれないか・・・だがな、気をつけてくれよ、ハンス(敵機)はゴマンといやがるからな・・・  」
オクスプリング少佐は僚機ボーモント軍曹とともにスピットファイヤーで飛び立った。

これよりすこし前、RAFケンリー戦闘機基地司令でRAFきっての猪武者ヴィクター・ビーミッシュ大佐は気象情報に目を通していた。今日の天候は若い未熟な部下達を作戦行動に飛ばせるには悪すぎる、と判断したビーミッシュ大佐は、フィンレイ・ボイド中佐と二人で”ちょっくら殴り込み”をかけてやろうと決心した。10:10に離陸した二機は、20分ほど飛んで海峡上空に出たとき、二機のメッサーシュミットを発見した。早速攻撃に掛かろうとブレイクした二機は、ガーランド隷下の護衛戦闘機陣の外縁に殴り込みを掛けるかたちとなったが、かくして突然にビーミッシュ大佐は敵艦隊を発見した。

08.06.05.

そしてまさにそのとき、ドイツ艦隊は前方に新たに発見された機雷原の掃海を艦隊随伴のたった4隻の掃海艇で始めたばかりで、10ノットほどの速度で航行を強いられる20数分間の始まりの時であった。

オクスプリング少佐・ボーモント軍曹の2機は、メッサーシュミットの大群を発見して雲の中に逃げ込んだ後、低空の雲の切れ間に敵機2機編隊を発見して、上空から攻撃を仕掛けようとしたが、すんでのところで赤・白・青の同心円マークを発見して攻撃を中止、図らずも後方から護衛する形になった。
危うく友軍機に撃墜される事態だった事にも気づかずに、ビーミッシュ大佐・ボイド中佐の2機は、艦形を良く見ようと低空で侵入を始めたが、護衛艦の対空砲火が激しく断念、急上昇してケンリー基地に向かった。当時の英空軍将兵の間ではダンケルク以来「海軍の奴等は敵味方関係なく航空機と見ればやたら構わず撃ってきやがる。」というのが通説になっていたが、事態の異常さから流石にビーミッシュ大佐も「敵艦だ」と直感した。
オクスプリング少佐・ボーモント軍曹編隊は後方から敵機に追われて艦隊上空をパスせざるを得なかったが、味方の激しい対空砲火を見た敵機は離脱、対空砲火を突っ切った両機は危うく難を逃れホーキンジ基地に向かった。
このとき、無線封鎖の指示を頑なに守ったビーミッシュ大佐ではあったが、一言「フラー」と叫び続ければこの後の事態は変わっていたかもしれない。オクスプリング少佐は無線封鎖の禁を破ったが、彼は暗号名「フラー」を知らず、「大型敵艦3隻と護衛艦20数隻がドーバーに向かって航行中・・・」と状況を報告したに留まった。時に10:30。かくしてドイツ艦隊はイギリス軍に発見されたわけであるが、イギリス軍が本格的阻止行動に出るには今しばらく時間が掛かった。

スピットファイヤーの無線を傍受したと報告を受けたガーランド独空軍大佐は、作戦秘匿のための無線封鎖を解く時期を見計らっていた。上空護衛の効率を上げるため無線封鎖を解除してよいかと部下から聞かれたガーランド大佐は「トミーのやることだ、さっきの奴等が基地に戻って報告しても、もう一回偵察機を出して確認しろと言われるのが関の山だ。こちらの無線量を増やして奴等の情報の裏付けをしてやる必要は無い。後から来た偵察機が報告を持って帰ってそれから全軍警戒急報だな。まぁ、あと1時間はほっといて大丈夫だ。」とたかをくくっていた。

先に基地に戻ったオクスプリング少佐は、ビッキング・ヒル基地のアイゴー少佐へ電話して報告をし、報告を受けたアイゴー少佐は第11集団司令官マロリー少将に連絡を取ったが司令部参謀の答えは、マロリー少将はノーソルト基地へ閲兵行っていて不在な上「俺たちに司令官を呼び出せって言うのか、冗談じゃない。おおかた漁船でも見つけたんだろう?もう一回偵察機でも出すんだな」とにべも無いものだった。後から戻ったビーミッシュ大佐は同じくマロリーの参謀にあしらわれた後、ビッキング・ヒルへ電話した。ここで初めて2編隊の発見した敵艦隊の情報がお互いに確認された。ビーミッシュ大佐はノーソルト基地へ直接電話をしたが3回とも参謀と押し問答になり、たかが空軍大佐ごときに呼び出されご機嫌斜めのマロリー少将が電話口に出るまでに30分近くを要した。が、。ビーミッシュ大佐の報告を耳にした少将は真剣に聞き入り、やっと全空軍に警報を発令した。時に11:35。ガーランド独空軍大佐の予想通り、オクスプリング少佐が無線封鎖を破って発した報告から、1時間あまりが経過したのちのことであった。

08.6.14

木洩れ陽がさして明けたこの日の天候も、時とともに雲はいよいよ低く、雨もいよいよ降りしきるようになってきた。ドイツ艦隊は機雷の心配のない海面を30ノットの高速で順調に航行していた。各艦のハリヤードに揚がっている信号旗は黄色の四角、すなわち「敵空襲ニ備エ」であった。その信号旗のはためく鉛色の空を見上げれば、友軍戦闘機が力強く旋回を続けていた。

12:00 艦隊はカレーの手前グリ・ネ岬沖に達した。ブレストを脱出した戦隊は、今は堂々たる艦隊にふくれあがっていた。Z4リヒアルト・バイツェン Z5ヤコビ Z14フリードリヒ・イーン Z19ヘルマン・シェーマンから成る第二二九駆逐戦隊および6隻編成の第二二五駆逐戦隊を前衛に、グリ・ネ岬沖からは各5隻からなる第二、第三、第八、艦隊水雷艇戦隊と、さらに第二、第四、第六魚雷艇(Sボート)戦隊が加わった。
イギリス軍に発見された事も確かになり、レーダーにも補えられつつ彼等は、いまや海峡の最狭隘部にさしかかろうとしていた。上空にはあれ以来、敵機の陰も形も見えない。旗艦シャルンホルスト艦橋の誰もが口にしようとしない疑問は、海峡を防衛している敵の重砲はいったい何をしているのだろうということであった。

12:15 艦隊は出発時の空襲による遅れも完全に取り戻し、当初の計画時刻にドーバーとグリ・ネ岬間の海峡でもっとも幅の狭い部分に達した。ここに彼等を撃沈せんものとイギリス空海軍の大部隊と海岸重砲の鉄桶の陣が待ち構えていることを覚悟して来たのだったが・・・いま、この霧と低雲の隙間をすかして見えるのは、イギリス本土とまばらな阻塞気球、そしてドーバーの崖の上にそそり立つレーダーアンテナだけだった。
 旗艦シャルンホルスト艦橋では、厚い羊皮外套の襟を立てたチリアックス司令官が、緊張をほぐそうとして煙草を取り出し、ホフマン艦長にも一本差し出した。金髪長身の操舵手ユルゲンスがマッチを摺って差し出した。深々と一服吸い込んだチリアックスは、礼を言って彼にも一本手渡した。別の士官が航海長ギースラーに「訓練航海みたいですね」と話しかけている。海図に航路をトレースしていたギースラーは、あごでうなずきつつ鉛筆で図上をつつくと「艦長、いまここです」と指し示した。覗き込んだホフマン艦長はチリアックスを振り返り「司令、どんぴしゃりです」と言い放った。
 もはやドーバーの断崖もつきかけようとしていたが、なお静寂がたれこめたままだった。なぜに敵はこうもしずまりかえったままなのか。一同はもはやさまたげられずに海峡を通り抜けられると思いはじめていた。

 一瞬、霧の中に閃光が走ったと思うと、にぶい轟音とともに、一発の砲弾が殿艦プリンツ・オイゲンの左舷後方1マイルも外れたところに着弾した。

 イギリス軍の海岸重砲は恐れるに足らず、と味方の情報は伝えていた。しかしチリアックスも各艦艦長も心底では信用していなかった。彼等のこの恐怖感は、カレー地区に設置された友軍の15インチや16インチの巨砲群を眼にしてのことに根ざしていた。だからこのはじめての敵弾が水柱をたち昇らせたときには、続くべき英軍巨砲の猛砲撃を覚悟して全身がひきしまり、頭らか血の気が引くのを覚えるのだった。

08.6.15

このとき、海峡の戦闘を指揮するドーバーキャッスル司令部では、司令官ベルトラム・ラムゼイ海軍中将をはじめ、空軍連絡士官ボビイ・コンステーブル・ロバーツ大佐、海軍連絡士官デイ海軍大佐、沿岸重砲指揮官ロウ陸軍准将らが、上を下への大騒ぎであった。中央のプロット室では婦人隊員が食事も取らずに、ドイツ戦艦の刻々変動する位置を太い色鉛筆で忙しくプロットしていた。レーダーサイトからは3分ごとに敵位置が入ってくるが、彼女達は自分達がなにをプロットしているのが判っていなかった。なにかとてつもない事が起きていることはだけは判るのだが、中には敵の英本土上陸作戦が始まったと思い込んでいるものもいた。10回線あるスイッチ盤はどれもつながれっぱなしでふさがり、誰もが大声で同時に声高にわめきちらしていた。高級士官であろうと許可無く入室が許されないこの部屋のほとんどのドアは開けっ放しになっていた。ラムゼイ中将は自室からプロット室へえっちらおっちら走ってくる途中だった。すれ違って走り抜ける連絡員のうち数人は、中将についてドタドタと走っている二頭のブルドッグの上にもろにつんのめった。
この混乱の原因は、ここの通信連絡の仕組みがあまりに原始的だったことに由来する。海岸重砲に指令をくだすべき陸軍所管のプロット室は、海軍司令室から歩いて5分も掛かる台地の反対側にあり、電話線は1本も引いていなかった。連絡は信号装置を介して行なわれたが、この装置は忙しく混んでくると速報が出せない。そこへテレプリンターでの暗号通信文でも入って来ようものなら使いっ走りが両者をつなぐトンネルを走って届ける事になる。おまけに陸海空三軍の協調はまったく取れていなかった。例えば沿岸重砲隊より高性能なレーダーを持っているスインギット空軍レーダー基地からは、重砲隊への連絡手段がまったく無くせっかくの情報も伝えられなかった。ある士官がこのことを指摘して改善を提案したが、取り上げる司令官はいなかったのである。

ドーバーキャッスルの混乱の中、セシル・ホイットフィールド・ロウ陸軍准将は、冷静に初期レーダー情報を検討していた。元々会計士をしていた彼は、一般の応召地方人としては稀有とも言うべき高い地位に着き、現在は第十二沿岸重砲隊の指揮官であった。
マルティニ将軍のレーダー妨害作戦も、新型で波長の短いK型レーダーの眼はごまかせなかった。サウス・フォアランド砲台に据えられたこのK型レーダーはドイツ戦艦の航跡を正確にプロットしていたのである。
ラムゼイ中将からの「準備整イ次第タダチニ砲撃」の命を受けたロウ准将は、サウス・フォアランドの4門の9.2インチ砲に「配置ニ付ケ」を下命した。未完成の15インチ砲台も、射撃管制システムに接続されていない2門の14インチ砲も今このときには役に立たなかった。しかも4門の9.2インチ砲についてもあまり期待できなかった。要員は基礎訓練すら終えておらず、ましてやレーダー管制砲撃の経験など誰も持ち合わせていなかった。

この日の朝、9.2インチ砲台ではこの2週間づっと続いた砲撃訓練をいつものように行なっていた。ドイツ戦艦が海峡にやってくるとの噂が伝わって以来、この砲台の士官連中は誰も休暇を取っていなかった。イザそのときにその場に居合わせず、敵戦艦に一発お見舞いする千載一遇のチャンスを逃す気は誰にも無かった。しかし、長々と待たされた面々は噂は嘘ではないかと思いはじめてもいた。ロウ准将の「配置ニ付ケ」の報を受けた観測班長デニス・ハッガー陸軍少尉は、またかと思いつつ、班員には今までどおりの訓練課業を命じ、砲台指揮官のガイ・ハドルストーン少佐に電話をして「いったい何事ですか」とたずねてみた。電話の向こうでは少佐が吼えた。「ハンスの戦艦が出てきやがった!訓練じゃない、これは実戦だ!配置につくんだ!」
砲撃管制班が「発射準備ヨロシ」を報告してきた時は正午を3分まわっていた。このときドイツ戦艦はサウス・フォアランド砲台から3万2000ヤードの距離にあった。

12:10 
砲台のK型レーダーは敵艦をグリ・ネ岬の方向2万7000ヤードと測定した。映像は極めて鮮明で、この動きから敵艦は22ノットと報告され実際より8ノットも遅く見積もってしまっていたが、ロウ准将はレーダーが確実に敵を補足していると見て「撃チ方始メ」を令した。
12:19
ハドルストーン少佐は2門を発射した。55秒後、この徹甲弾がプリンツ・オイゲンの後方に着弾、大きな柱と硝煙が生じ、ここに本格的なドーバーの戦いの火ぶたが切って落とされた。

08.7.6

以下続く

文献
John Deane Potter (Non-fictions): 『高速戦艦脱出せよ』、内藤 一郎訳、早川書房、1990年、ISBN 4-15-050002-9

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