管理者が直接調べてこの結論に至った訳ではありません。関連書籍、関連サイトを読みそれぞれの記述から、管理者なりに考えをまとめて置こうと思いTXT化したものを、せっかくなので公表しようと思ったもので管理者の覚え書き程度として見てください。
ルーツは、強力な「浮き砲台」。外洋航行能力が不足した状態から、機関、装甲(装甲用素材)等の発展に伴い充分な外洋航行能力を持つに至り、圧倒的な砲力と射程、強固な装甲を持ち(艦船は女性名詞なので)「海の女王」として君臨する事となる。そのなりたちから重要視されていたのは船としての基本性能よりも戦闘能力であった。1906年(明治41)英国「ドレッドノート」(弩級)の竣工は、それ以前の戦艦をすべて旧式艦としてしまう程画期的な戦艦であった。その後、機関の発達、艦の大型化、装甲と砲力のバランス等の各種要件から低速重防御の主力戦艦と高速軽防御の巡洋戦艦に分かれて発展して行った戦艦だが1916年(大正5)5月31日〜6月1日第一次大戦下のジュットランド沖海戦において巡洋戦艦の軽装甲の問題点を露呈、足の遅い戦艦は戦場に到達する事すら出来なかった。そのため開発は高速戦艦へと向かって行くが、魚雷、航空攻撃の発達によりその地位は急速に奪われて行く。
初めに基本的な外洋航行能力を持ち、艦船としての高い基本性能を優先してその上に攻撃力を付加した艦船と言える。自国の版図を守る為に、いつでも(荒天時でも)どこにでも(補給の続く限り)航海が可能で、そこそこの攻撃力を持ち、警戒、哨戒、海戦、紛争鎮圧等に「参戦」することの出来る能力が優先される。そのために必要最小限の大きさと攻撃力と速力を持ち、数がそろえられる事が重要となる。1914年(大正3年)竣工の英国「アリシューザ」は近代巡洋艦の祖とも呼ばれ、巡洋艦を語る上で外せない存在となっている。1922年締結のワシントン軍縮条約ではの巡洋艦は基準排水量10000t以下、搭載砲は8インチ砲までと決められたが保有数には制限が無かった。1930年締結のロンドン軍縮条約によって搭載砲6.1インチ超〜8インチの甲巡(重巡洋艦)と、搭載砲6.1インチ以下の乙巡(軽巡洋艦)に分けられ、その日米英の保有量は重巡洋艦6:10:8、軽巡洋艦7:10:13と決められたが、この排水量、搭載砲の基準は艦船の基本性能には関係なく純粋に「政治的」に決められた数値であった為、以後の条約型巡洋艦は個艦性能のバランスをどのように取るのか?各国の思惑の分かれるところとなった。重巡洋艦は、準決戦戦力としての期待が込められたが戦闘艦船の基本となる自艦の搭載砲に対する防御装甲を装備する場合、8インチに対する10000tは基本排水量が不足していた。
あえて繰り返すと巡洋艦とは「艦船としての高度な基本的性能の上に戦闘能力を付加した戦闘艦」である。
基本的考え方は「戦艦」と同じ。「魚雷艇駆逐艦」として、主力艦の護衛が出来る最低限の航洋能力と魚雷艇に対する圧倒的砲力を持ち、敵魚雷艇を駆逐する為の戦闘能力が優先され荒天時の外洋航行能力には欠けていた。そもそも魚雷艇自身が内火艇(カッター:港湾内を移動する為の海上タクシーの様な船)に魚雷を装備したものが始まりで、外洋航行性、砲力はほとんど持たず、魚雷艇駆逐艦はその存在が魚雷艇を文字どうり駆逐してしまった。その結果魚雷艇の機能を魚雷艇駆逐艦が持つ事が必然的に要求され「駆逐艦」として発展して行く。そして雷撃、砲撃、偵察、哨戒、輸送、救助、小ささゆえの「数」と「使い勝手の良さ」から艦隊の便利屋として活躍していく事となる。1928年(昭和3年)日本の特型駆逐艦「吹雪級」の竣工をきっかけにその外洋航行能力は飛躍的に伸び、巡洋艦との役割的線引きが難しくなっていった。本来巡洋艦しか行けないはずの海域に何時でも戦力として展開出来る能力を持った大型駆逐艦の存在は脅威であった。逆を返せば特型以前の駆逐艦は戦力として計算が立たない存在であり、味方の駆逐艦が行動できない状況では敵の駆逐艦も行動が出来なかった。特型は「計算できる戦力」駆逐艦として世界の海軍の脅威となり、各国で「駆逐艦の巡洋艦化」が進んで行くきっかけとなった。
艦載機の発達は砲撃の着弾観測が本来の目的だった。艦載機による戦艦に対する攻撃がそれ程有効とは考えられていなかったのであるが、その可能性は模索され続けていた。カタパルトから射出された水上機は、直接帰艦出来ないため一旦海水面に着水してデリック(クレーン)で回収されていた。そのために一度艦を止めなければならず高速機動中の艦隊にとって大きなロスであった。飛行甲板を持った艦船から直接発艦着艦が出来れば大きな機動力が生まれる。元々空母に与えられた任務は、偵察、接触、着弾観測、とその為の制空権の確保で、水上艦を攻撃する事ではなかった。急降下爆撃機、航空魚雷の発達はその目標を敵空母に変えた。空母を叩けるのは空母しかなかったのである。
1940年(昭和15)11月11日 第二次大戦下 英国による伊タラント湾空襲によって航空機攻撃の効果が初めて実証された。英空母「イラアストリアス」艦載のソードフィッシュ21機のみで行なわれた空襲は規模は小さかったがその戦術的、戦略的戦果は共に大きかった。航空攻撃が水上艦艇攻撃に有効である事を証明したが、当のイギリスは二国標準に近い戦艦数を保有してい為、主戦力の空母へのシフトは進まなかった。一番過剰に反応したのは日本である。条約により戦艦保有数で圧倒的に負けていた日本は、当時補助艦艇に分類されていた空母の戦力化のため艦載機の開発を進め「零戦」(れいせん)「九九式艦爆」「一式陸攻」等、次々と航続距離の長い機体を開発する。そして「真珠湾攻撃」「マレー沖海戦」時、戦艦に対する航空機攻撃の有効性を大きく証明するが当の日本海軍の首脳陣の多くはその有効性に気付いていなかった。真珠湾で主力艦戦艦を失ったアメリカ太平洋艦隊は、難を逃れた空母4隻を主力とせざるを得ず、またその有効性を身を持って体験した為、図らずもその窮地が戦艦から空母への主戦力シフトに向かわせ、現在に至ってもその地位は変らない。
砲撃による効果の目的は敵艦の戦闘力を奪うことである。撃沈すればもちろん戦闘力は奪えるが、撃沈しなくとも砲塔に被弾すれば反撃は出来なくなり、兵器管制装置を破壊すれば有効弾は撃てず、担当兵員が負傷、死亡すれば兵器は沈黙する。航空機からの爆撃も基本的考えは同じである。装甲された戦艦は上からの攻撃にはめっぽう強くなかなか沈まないのである。
戦闘艦黎明期の海戦は陸上の「城攻め」と同じで、砲撃は接舷して兵士を敵艦に送り込み乗っ取る為に敵艦の足を止める方法の一つに過ぎなかった。その為「大きい船」は兵士も砲も沢山つめるので強い船だった。そこに「防御装甲」と言う要素が加わって様相が一変した。装甲を打ち破れない火力は無きに等しく、敵火力を防げない装甲も無きに等しい。木製の船は如何に強い木材をもってしても砲弾が当れば何がしの被害を受けるが装甲はそれを皆無に出来た。装甲艦が一方的に非装甲艦を叩きのめす事態となった。その対策の一つが砲の大型化。砲撃戦の基本はボクシングで言う所の足を止めての殴り合い。帆船時代は映画でも見た人も多いと思うが車輪の着いた陸上砲を甲板に置き両舷にズラリと並べて数で勝負していた。一発打つと大砲は後ろに下がり人力でまた前に出して照準をつける。照準法が確立していなかったため命中率が極端に悪かった。そのため艦首の水線下へ突撃用の突起を設けて敵艦の船腹に艦首から突っ込み水線下に穴をあけて撃沈する方法もとられていた。
1866年7月22日(慶応3)イタリア統一戦争下の「リッサ沖海戦」において速射砲で無い大型砲の限界を露呈する。当時の艦載砲の射程は4000〜5000mぐらいで次弾発射にかかる時間は約5分とするとその間10ノットで正面から突っ込む敵艦が移動する距離は相対速度16〜20ノットとして約2000〜3000m。元々照準が難しい大型砲はその重さゆえ数も揃わず、初弾の照準もまるで役に立たない状態となり、初めから艦首を突っ込むつもりのオーストリア海軍にイタリア海軍は散々に叩きのめされた。
1894年(明治27)9月17日 日清戦争下の「黄海海戦」では、日本連合艦隊の「速射砲」が圧倒的な威力を発揮する。照準装置を砲身と分離、砲身のみ反動で後退して照準はそのまま次回の射撃に生きる事となり命中精度、連射性ともに大きく向上した割合小口径の日本艦の砲撃は、清国艦艇の非装甲部分を大きく破壊した。対する清国海軍は旧来の大口径艦載砲で速射性、命中精度共に劣っていた。当時は艦の基本性能の関係で大型砲を沢山積む事が出来ないため副砲で数を補っていたが、口径の違う砲による砲撃は照準に大きな問題を残したままだった。
1905年(明治38)5月27日〜28日 日露戦争下の「日本海海戦」において明らかになった事は、照準の為の斉射が有効であった事。ロシアの強力なバルチック艦隊の艦載砲は大型ながら照準法は旧来どうりであった。それに対し日本海軍は決戦が対馬海峡であった事も幸し、作戦可能なすべての艦船を投入して、旧式な巡洋艦(木造装甲艦)がバルチック艦隊に接触し続け、新型の速射砲搭載艦が斉射を照準に応用して命中率が極端に上がった事が大きな勝因になる。それ以前の艦載砲の照準は一門が試射して距離を測りすべての砲門を開く事で照準を行なっていた。しかしこれでは口径の違う砲ごとに照準を変えなければならず試射も順番に行なわないと試射砲の着弾が確認できなかった。口径の違う砲を一斉に試射しても着弾の観測が出来なかった為である。それに対し、同一口径砲を揃えた日本海軍は一回の試射で初めの照準を決め照準データを共有してから斉射する事ですべての砲がほぼ同じ域内(散布界)に着弾したので次弾照準にそのデータが生かせるようになった。火力の集中の為でなく「照準法」としての斉射が功を奏した初めての海戦であった。そしてこの事は英戦艦「ドレッドノート」の竣工によって明確に戦艦の設計基準となって現れる。
魚雷の構造を簡単に説明しておくと大きく分けて、高圧圧縮空気のタンク、2重反転スクリュー、簡単な舵と弾頭となっていた。圧縮空気を動力源としてスクリューを回し、回転反動を2重反転スクリューとする事で相殺し、進路、深度を決める為の簡単な舵が付き口径の割りに大型の弾頭を搭載していた。(魚雷の基本的構造はhttp://www2.ttcn.ne.jp/~kobuta/index.htmlこちらで確認して下さい。)魚雷の効果は小型艦艇に大型艦船に対する致命的な攻撃力を持たせる事となったが、初期の魚雷(冷走魚雷)は射程が1000m弱と短くかつ低速で兵器としての実用性は低かった。以後約30年の間冷走魚雷構造のまま改良の進んだ魚雷は、燃料タンクを積み燃焼により空気を膨張させる(乾式熱走魚雷)事で搭載した圧縮空気を高効率に使える様になり劇的にその性能が向上する。そしてさらに燃焼排気に海水を混ぜる事による水蒸気膨張を動力源(湿式熱走魚雷)にする事によりさらに射程、速度の向上が図られた。1866年ホワイトヘッドが魚雷を開発してから40年の時を経て実用兵器として大きく期待される事となる。
雷撃照準の基本は方位だけ。この事は砲撃と決定的に違う要素で、砲撃は距離と方位を合わせなければ当らず、雷撃は方位さえ合わせれば必ず当る。ただ魚雷は砲弾に比べ決定的に遅いため、敵の未来位置の予測が難しく、発見されなくても回避行動を取られると当らない。逆に回避行動を取れない位置で発射すれば必ず当る。近距離での雷撃は当るのである。そしてその威力は小型艦艇に於いては致命的。戦艦であっても「沈め」られる威力がある。砲撃の項でも触れたが、砲撃は「戦闘能力を奪う」目的で行なうが、雷撃は「沈める」目的で行なうのである。
魚雷の実用兵器化は戦艦の「海の女王」としての地位を大きく揺るがす事となり、特に日本海軍においてその傾向は強く、93式酸素魚雷は小型艦艇に戦艦と同等の射程と攻撃力をもたせ、戦術兵器ではなく戦略兵器として一国の基本戦略をも変えてしまった。そして雷撃プラットホームとしての航空機の発達ともに戦艦の「海の女王」としての地位を奪い、水上攻撃用兵器としての「戦艦」と「魚雷自らの存在」をも否定する事になる。目標の無くなった兵器は存在意義も同時に失ったのである。
現代の世界最強米海軍の戦力の基本は「空母戦闘群」である。対艦ミサイルは砲撃の延長であり、砲弾が自ら動力を持ち誘導されて目標に当る。その射程は数百キロにおよび、プラットホームは航空機と広義での巡洋艦であり主には航空機である。航空機は空中給油により半無限の航続距離を持ち得、航空機発射のミサイルの射程も半無限と考えてよい。魚雷は対水上艦艇攻撃の有効性を失うが、対潜水艦攻撃の主要な兵器としてのみ残る事となった。海面下の敵を攻撃するには潜水能力が必要だからである。航空機のプラットホームたる空母は海上攻撃力の主役の地位を確固たる物とし、その他の艦艇は(イージス艦も含め)その護衛を第一義として建造されている。1941年(昭和16)12月8日真珠湾攻撃、同12月10日マレー沖海戦がその方向性を決めた歴史的事項で有ったことに異論はないと思う。
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